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男子伝統服装談義 Free & Easy(執筆原稿)


 1.出会い

 

 

 

 


 

服飾の世界に携わってから、はや半世紀が過ぎました。
ぼくはこの業界の中を、わき目もふらず一心不乱に駆け抜けてきました。
折しもぼくが服飾の世界に飛び込んだ1953年は、日本のファッションシーンの大変革期に重なります。
つまりVANを旗手としたアイビー・ムーヴメントが萌芽し始めた時代でした。
もちろんぼくもその波を肌身で感じた一人です。忘れられないのは、VANの創始者、石津謙介さんとの出会いです。鮮烈な思い出が今でも甦ります。

 その前に、ぼくが服飾の世界に身を投じた経緯を少しだけお話ししましょう。
もともと小学生の時から洋服好きではあったのですが、その思いが決定的になったのは大学生の頃です。当時1952年は、朝鮮戦争の真っただ中。東京・芝浦にはアメリカ軍の補給基地が設けられていました。ぼくはそこでアルバイトを始めました。
そして強烈なカルチャーショックを受けました。基地の中はアメリカそのものだったんです。
例えばコーヒーメーカーには常時コーヒーが沸かされていて、いくら飲んでもいいよと言われました。当時はコーヒーなんてそうそう飲めませんでしたからね。
ウオータークーラーの存在にも驚きました。使い捨ての紙コップで飲むのですが、ぼくは使い捨てるのはもったいないと思って、洗って戻したら怒られました(笑)。

当時の日本は食べるものも着るものもまだまだ足りていなかったから、アメリカと日本の文化の差、貧富の差を強く感じました。アメリカに憧れを抱くようになったのはそれからです。
食文化しかり、服飾文化しかり。その後、大学を卒業した1953年、ぼくは白木屋(現・東急百貨店)に入社し、紳士服仕入部に配属されました。要するに今でいうバイヤー。これがぼくの服飾の出発点です。

 石津謙介さんに出会ったのは、まさにその翌年。石津さん自ら、カバンを提げて白木屋に商品を売り込みに来たんです。その商品にぼくは度肝を抜かれました。
スカイブルーのジャンパーで赤いカラークロスが付いていた。紳士服仕入部の部長もえらく興奮してぼくにこう問いました。「伊藤くん、これ本当に男の着るものかい?」って。その頃、男の服といえば黒っぽいものが主流でしたから、あまりに前衛的な印象でしたね。
まるでそのジャンパーだけが、ひときわ明るく輝いているように見えました。石津さんはその派手なジャンパーを白木屋に置いてくれと言うんです。そこで白木屋としては、まず陳列用のガラスケース2台分だけ仕入れることにしました。ところがいざ蓋を開けてみれば、そのジャンパーは飛ぶように売れました。こんなにも大ヒットしたことにまた驚きました。

 石津さんが売り込みに来た時、実はぼくはその人物が石津謙介その人とは判らなかったんです。ただずいぶん風変りな男だなと思っていました。石津さんは男性服飾誌『男の服飾』(現・MEN.SCLUB)を持参していて、それにサインをして渡してくれました。
あとになって、そのサインをよくよく見たら「石津謙介」と書いてあったというわけです。

 それから2年後、白木屋の松本取締役が、ヤング向けのファッションショップ『YMM(ヤングマン・マート)」がアメリカで流行っているのを海外のファッション誌で知り、それを白木屋でもやってみないかと提案されました。ぼくもYMMの存在を知っていましたから、ぜひやりましょうと賛同しました。わずか10坪ほどのスペースに、『バーシティ・ショップ』と名付けて、VANのアイテムを中心とした若者向けの洋服や小物を並べました。これがものすごい反響を巻き起こしました。
お客さんだけでなく、いろいろなデパートのバイヤーたちが偵察に来ていましたね。これを機に、各デパートがこぞって若者向けファッションアイテムを扱うショップスペースを設けるようになりました。白木屋はその先駆けだったんです。VANは、この潮流にうまく乗って各デパートヘ進出していったんです。まだアイビーという言葉が生まれる前の話です。


 
伊藤紫朗Profile●

いとうしろう/フアッション・プロデューサー、
チェスターフィールド代表。1953年立教大学経済学部卒業後、株式会社白木屋に入社し、紳士服仕入部に配属される。
白木屋在籍中に、雑誌「男の服飾」「男子専科」」などに寄稿を始める。1964年に同社を退社し、メンズプランド
「NEWYORKER」「JAX」rMacBeth」の起ち上げに尽力。1996年に伊藤紫朗個人事務所設立。フアッションジャーナリストとして活躍しながら、各社アバレルメーカーで顧問を務める。著書に「男も女も気になるオシャレの話」「アイビーライフ」など


2.旅
 
 
 
 
 

 

 白木屋の紳士服仕入部に着任した翌年の1954年、通年着られる「イヤーアラウンド・スーツ」を考案しました。ぼくは入社当時、スーツー着と替え上着1枚しか持っていなかった。そのため夏でも冬のスーツを着ていた。
そこで考えました。背ヌキと半ウラの中間の。七分ウラ゛を開発し、1着で1年中着られるスーツを仕立てたんです。このスーツは実用新案特許を取得するに至り、社長から表彰もされました。市場でも大反響を巻き起こし、
1955年11月28日付の毎日新聞の家庭欄に、大きく取り上げられました。

 一方で、この記事を読んだ同業者からは批判されました。こんなスーツが普及したら業界にとってマイナスになる、と。数が出なくなるわけですから、それはもっともな言い分です。それでも反響のほうが上回り、男性服飾誌『男子専科』にも取り上げられました。その後、毎日新聞の記者に‐1伊藤さんは服飾をよくご存じですから二度寄稿してくれませんか?」と言われて筆をとったのが、ぼくが物書き業を始めたきっかけです。ぼく自身も、『男子専
科」にライターとして売り込みに行きました。そうしたらライター不足だったせいか、その場で即採用。次号から記事を書くようになっていました。さらに気がつけば『男子専科』の競合誌『男の服飾』にも書くようになったんです。

 ただライター業を始めたといっても、白木屋を退社したわけではなく、2足のわらじで両方の仕事を続けていました。会社もそのあたりはおおらかだったというか、寛大だったというか。その後もぼくのわがままに会社は非常に寛容でいてくれました。1959年にj一年間アメリカに行きたい旨を会社に申し入れたとき、休職扱いにしてくれて、銭別という建前で1年分の給与を先渡ししてくれたんです。非常にありかたかった。

 そもそもアメリカに渡ろうと思ったのは服飾研究のため。やはり雑誌ではなく現実をこの目で見ないとだめだと思ったからです。1年かけて、グレイハウンド(長距離バス)を乗り継いで全米を回りました。当時は99ドルで99
日間無制限に乗れるチケットがありましたから。ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコ、マイアミ……転々と移動を重ねてきました。強く印象に残っているのは、ニューヨークのメンズファッション。当時は完全にアメリカン・ト
ラディショナルが席巻していましたね。最も印象深かった店を挙げるとすると、やはりブルックス・ブラザース。こんなにも洗練されたショップがあるのかと、打ちのめされるような思いでショーウィンドウを眺めたものです。しか
し高くて何ひとつ買えませんでした。当時はIドル360円の時代ですが、海外渡航には500ドルしか持ちだせなかったのですから。

 このアメリカ渡航を契機に、ぼくのファッション傾向はアメリカン・トラディショナルに固まっていきました。
アメリカン・トラディショナルを広義に解釈すると、アイビー、プレッピー、のちにラルフ・ローレンが打ち出すブリティッシュ・テイストを加えたニュートラッドを含むものだと思います。
その共通項を突き詰めれば、ジャケットのナチュラルショルダーです。
これがアメリカン・トラディショナル・スタイルの生命線。ショルダーがコンケープショルダー(反り返った肩)であったり、厚めのパッドを入れたスクエアショルダーのものは、アメリカン・トラディショナルではありません。パッドをほとんど入れない自然な肩のライン、加えてナローであることが絶対条件です。肩から袖にかけ
てのなだらかなラインこそが、ヨーロッパやイギリスの服と違う点です。このナチュラルショルダーのジャケットやスーツを一度身につけると離せなくなる。着心地に加え、クラシックな雰囲気や流行を超越した美しさが詰まってい
るからです。

   
3.独立
 
   アメリカ視察から帰ったぼくは、白木屋の紳士服仕入部に復帰するも、それまで以上に原稿執筆依頼が舞い込んできて、いっそう忙しくなりました。
気がつけば会社の給料‥と原稿料が並び、やがては原稿料がはるかに上回るようになっていました。当時はまだ若かったので、一晩で原稿を25枚書きあげる体力があった。原稿料1枚1000円として、2万5000円になるわけで
す。会社の給料が1万ちょっとの時代でしたから、原稿料はぼくにとってもの凄い収入源でした。その収入の高さも魅力のひとつでしたが、文筆業への興味も次第に増してきていたので、思い切って白木屋を辞めて、ペンで生計を立て
てみようと思い至りました。
ワイフも背中を押してくれた。「自分のやりたいことをやればいいのよ。お金に困ったら白タクの運転手をすればいいじやない」って言ってくれたんです。それで、よし1・ と思い切って辞表を提出しました。
1964年のことです。

 白木屋を辞めてから、Iカ月くらいまたアメリカヘ行って来ようと思っていた矢先、1本の電話がかかってきました。大同毛織(現・ダイドーリミテッド)からでした。なんでもこれまでの毛織物の生産だけでなく、既製服を手掛けた
い、ついてはぼくに顧問になってほしいとオファーがありました。そうして立ち
上げたのがトラッド&アイビー路線を前面に押し出したブランド『NEWYORKER』なんです。現在もナチュラルショルダーメイクのビジネススーツを中心とした商品展開を行っています。
 NEWYORKERを設立したちょうど同時期に、洋服作りが最高に上手かったある工場の社長から相談を受けたんです。
これからは工場で下請け生産するだけでなく自社ブランドを展開したい、と。ぼくはマーケティングとマーチャンダイジングならお手伝いしましょうと答えた。そうして生まれたのが『JAX」というブランド。『VAN』や『JUN』と並び、いわゆる3つ文字ブランドと称され、アイビー全盛時代を支える一翼へと成長しました。
ヤングマーケットを狙って、スーツ、シャツ、タイなど総合的にアイテムをリリースし、爆発的にヒットした。ところがこのブランド、なんと黒字倒産してしまうんです。
もともと社長が工場の人だったせいか、資金繰りで失敗してしまった。アバレルメーカーは生地の仕入れを1年も前からしなくてはいけない。そうすると決済が先になるんです。それを理解していなかったせいか、運転資金がショー
トしてしまった。当時15憶売っていたブランドだったにもかかわらず、です。

 その後、JAXにいた5人がぼくのところへ転がり込んできた。たまたまその5人が都合のいいことに、営業統括、営業マン、紳士服のパタンナー、婦人服のパタンナー、製造企画だったものだから、ぼくとともに新生ブランドを立ち
上げようという話になった。ぼくが原稿執筆で貯めた800万円を資本金にして、『MacBeth(マクベス)」を誕生させました。コンセプトはピュア・アイビー。ちょうどVANがアイビー路線から撤退し始めたタイミングだったので、あえてやることにしたんです。
スタジアムジャンパーや尾錠付きスラックスをリリースしました。VANとJAXがすでに開拓した潜在的ニーズをす
くいとり、これが見事にヒット。1969年の話です。ぼくらはアイビーの最終バスに飛び乗ったわけです。業績はぐんぐん伸びました。会社は巨大化し、従業員は一時は100人を超えました。しかし会社が巨大化すると利益計算がままならなくなる。10日くらいで3億4億の狂いが生じる。おかげて不安神経症になり、血圧が200にまで上がりました。自殺願望にも苛まれ、とうとうすべてを手放すことを決意しました。また再起すればいいやって。

手放したらたちまち心身ともに健康を取り戻しました。それでわかったんです。
VANが倒産した直後、石津謙介さんを訪ねたとき、石津さんは失意のどん底にいるのかと思いきや、どこかせいせいとした表情をされていた。ぼくには石津さんのお気持ちがなんとなく理解できました。案外そんなものなんですよね。
 
 
   
4.定義
 
 

 

 「MacBeth(マクベス)』を撤退させてからしばらくは、ファッションジャーナリストの道を歩くことになりました。レギュラーで『僕と私のファッション」(フジテレピ)や「11PM」(日本テレビ)に出演したり、雑誌[平凡パンチ」の編集顧問をしたり。その後も今に 至るまで、さまざまアバレルブランドの顧問に就いてきましたが、ついぞ新たなブランド設立のために先頭を切って走ることはしませんでした。80年代に突入してからは、DCブランドブームやヨーロピアンブランドの台頭が目覚ましく、トラディショナル路線はやや沈静化傾向にあったのもその理由のひとつです。

 たしかに日本人の洋服スタイルの選択肢は、日ごとに増えていきました。それでもぼくはトラディショナルから片時も離れず、かたくなまでに愛し続けています。なぜか。それはこのファッションが有するクラシカルかつインテリジェンス溢れる雰囲気に、独特の魅力があるからだと思います。控え目でありながら重々しさが伴い、古さだけでなく若々しいスポーティなタッチも感じられる。トラディショナル・ファッションの奥深さに魅了された者は、二度と離れられなくなるばかりか、他のファッションがいかにも軽佻浮薄に思えてしまうのです。

 そもそもトラディショナル・ファッションの定義とはなんでしょう。
源流をさかのぼれば、アメリカのアイビーリーガーに突き当たります。アイビーリーガーとは、ファッションに詳しい人にとってもはや釈迦に説法かもしれませんが、アメリカ東部の名門8大学「ハーバード」「イェール」「ペンシル八二ア」「プリンストン」「ブラウン」「ダートマス」「コーネル」「コロンビア」の総称です。これら8大学が、1939年より行っているアメリカンフットボールのりIグ戦の名前が由来になっています。

 この8大学は、日本の東京6大学とは比べ物にならないくらいのステイタスを誇ります。まず他の州立大学に比べて授業料も高く、ニューヨークにあるコロンビア大学を除く7校は、都会から遠く離れた場所にあるため、そこに通う学生たちは下宿しなくてはならない。それゆえ授業料と下宿費とダブルでお金がかかるわけです。つまりそれだけ裕福な家に育った子息であることが条件になるわけす。
また成績が悪い者は容赦なく落第させる厳しい学風の大学ばかりです。だからアイビー校を卒業した者は良家の出でありつつ、実力もあるということになります。社会に出れば出世することが約束されたようなもの。実際、アイビーリーガー達がアメリカの社会の中で常に先頭を走り、社会を動かしているといっても過言ではないのです。

 ちなみにアイビーのもともとの語源をご存じでしょうか。諸説あるのですが、よく言われれるのが、それら8大学は創立が古く、校舎には蔦(=IVY)が張っていることから称されるようになったという説。これはどうもぼくはこじつけのような気がします。もうひとつの説は、大学の対外試合を「?NTERVARS?TY」と呼ぶことから、この頭文字のIとVを取ってIVYへと転じたという説。これが有力なようです。さらに、リーグ戦が始まった当初は「ハーバード」「イェール」『フリンストン」「コロンビア」の4つの大学で始まったことから、4を表すローマ数字「y」を
?とVに分け、それがIVYに変化したという説があります。

 そんなエリート集団である彼らアイビーリーガーが好んだのが、ナチュラルショルダーを擁した3つボタンのジャケットに代表される独自の服装です。そこから彼らが着るファッションを《アイビーリーグモデル》とか《トラディショナルモデル》と呼ぶようになったのです。ぼくもそうですが、不思議とこのファッションを愛する男は、何歳になろうとも、このスタイルを貫く人が多い。普遍的な魅力があるからでしょうね。

 
   
5.アイビー復活の兆し
 
 

 1955年に、―ACD(国際紳士服デザイナー協会)が、アイビールックモデル(スーツ)を発表しました。これをきっかけに、アイビールックの定義がより明確に整理されました。
またその後のトラディショナル・ファッションの方向性を決定づける要因になりました。

発表されたスタイルというのが、
上着はシングルブレストで3つボタンの上2つ掛け、肩はナチュラルローショルダー、ノッチラペルにシルエットは細身、しかししぼりは入れず、バックサイドはフックベントまたはセンターベントを擁するというもの。スラックスについては、プリーツなしのフラットフロントで、細めのパイプドステム。裾は折り返し付き。ざっとこんな感じでした。

ぼくは今なおこのスタイルには、時代や流行を超越した普遍的魅力が備わっていると思います。クラシックで保守的ではあるけれど、しかし頑固さも感じられ、インテリジェンスの香りも漂う。こけおどしの要素もなく、質実がしっかりと伴っている。極めてタイムレスかつエイジレスなスタイルだと思います。大げさな言い方かもしれませんが、ほかのファッションすべてが頼りなく思えてしまうほどの存在感がある。

 もしもあなたが、ファッションの迷宮で進むべき方向を見失ったら、アイビーないしはトラディショナルの道を迷わず突き進めばいい。そうすれば流行の風に吹き飛ばされることはなくなる。何歳になろうとも、間違いなく一生お洒落でいられます。それはぼくが80歳を迎えようというこの年まで、変わらず実践し続けているので保証します。おそらくこのスタイルは今後も枯れることなく、古臭くなることもないでしょう。ある種、完成の域に達しているファッションだと思います。それが証拠に、F&Eのこの号でアイビーファッションの特集が組まれているように、アイビー再注目の機運が各国で盛り上がっているように思います。アイビーは決して死んではいなかった。

 時間をさかのぼること1965年に、石津謙介さん、くろすとしゆきさん、林田昭慶カメラマンらが制作したトラッドファン永遠のバイブル『TAKE?VY』という写真集が出版されました。当時のアメリカのカレッジ・ファッションを撮り下ろした1冊で、60年代アメリカの若者のファッションを知るには格好のテキストということで、服飾業界のプロにとっても必須かつ希少な1冊になっていました。こういった写真は、現地アメリカにも残っていなかったんです。だからアメリカの古書店では、1000ドルの値をつけていたほどの希少価値があるものでした。それが2006年にセレクトショップ『SHIPS』の協力で、雑誌『MEN.S CLUB』から限定で復刻されました。しかし瞬く間に売り切れたのです。それでも今年になって、アメリカの出版社POWERHOUSEが英語版の『TAKE‐VY』を復刻させました。これもアイビーファッション再注目の潮流のひとつと見てとれます。

 また海の向こう韓国のファッショントレンドをつぶさに見ると、来年あたりアイビーファッションが流行り始める予兆がうかがえます。韓国ではどちらかといえばカジュアルなカレッジ・ファッション寄りのアイピーブームなんですが、カレッジロゴを配したトレーナーを作っているアバレルメーカーが4社くらい見られます。

 しかしアイビーファッション復活だからといって、例えばIACDが打ち出したスーツをそのまま再現しても、現代の感覚には受け入れられにくいでしょう。完全復刻を喜ぶのはせいぜいそれらを懐かしがる団塊の世代だけ。もっと幅広い世代に支持されるには、当時のDNAを受け継ぎつつ新しさを吹き込まなくてはならないと思います。軸を動かさずにアレンジを加える。それは改変ではなく、進化として多くの人に迎え入れられるはずです。

 

 
 
   
 
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